4月は純真無垢

素敵撒き散らしたりする。

自己実現の強迫観念

さえりさんのブログを読んで。

saeri.me私はさえりさんが大好きです。

 

ただ、”なりたい自分”にこだわるのは、なんでなんだろうと思った。

なぜ、現状を肯定することに、恐怖を感じるんだろう。

さえりさんは、「人それぞれ」と言うし、決して、「これで十分かも」という他者を蔑んだりしないと思う。

でも、彼女自身は、「これで十分かも」ってどうして言いたくないんだろう。

恐怖とまで言ったのは、なぜだろう。

 

 

 

 

私は、「何者にもなれなかった人が、結婚して、子供を産んで、『これが幸せだわ』と思い込もうとするような生き方をするんだ」と思って、それを少しだけ嫌悪していた時期がある。

つい、半年ちょっと前だけど。

「結婚」や「家庭」を夢にするのは、他者の上位に立たなければ実現できない夢と違って、手に入りやすい上に、幸せの形にオリジナリティを出しやすい。

万能の夢。万能の幸せ。

それに満足するような生き方はしたくない、自己実現のために、生産(創造)しなければ、と思っていた。

 

でも、自己実現の強迫観念に疲れた。

なりたい姿は、よくわからなかった。

掲げていたものは、だいたい承認欲求を満たしたいだけだったり、飽きっぽい性格で最後までできなかったり。結局渇望なんかしてなくて、「それほどでもない夢」でしかなかった。

あるべき姿は、やりたくないことばかりだった。

グローバル人材になってどこでも通用する人間になるべき、とか。人生という荒波を航海するために必要なことばかりなんだろうけど、やりたくないの。やらねばならないときは必ずくるのだろうけど・・

 

ただ、

ありたい姿は、分かったような気がした。

今、私がどんな風に生きるのが心地よいか。

今、夢中になりたい。

頼まれたイラストを描いて、絵のことだけを考えている時間。

仕事の効率を上げるために同僚と打ち合わせをする時間。

職場のアジサイを眺める時間。

彼と暮らす家を探している時間。

そのときのことだけを考えている時間は幸せだ。

 

突拍子もない「なりたい姿」よりも、夢中になっている時間の先にある姿がいいなって思う。

かえんほうしゃを覚えるために必死にレベル上げする時間より、楽しくゲームを進めていたら気づいたらかえんほうしゃを覚えていたい、みたいな。(これは、2013年の自分がブログで書いたしっくりこない例え。ポケモンの話。)

だから、現状に「これで十分かも」って思うのって、別に悪くないんじゃないかなぁ、と思う。

 

・・・・と、書きながら思ったけど、

私の思う「ありたい姿」って、ちゃんと、生産しているね。

地位や名誉からはかけ離れているけど、私の納得のいく形で生産をしたいと思っている。

地位や名誉からはかけ離れていて、他者を巻き込まない形の生産だからこそ、私にとって「結婚」は生産の障害にあまりならない。

「結婚」は夢ではないし、障害でもない。私が心地良く生きる手段の一つであって、すべてではない。だからもう嫌悪していない。

 

 

 

 

ここまで書いてみて、さえりさんの恐怖というのは、

夢中で生産できない現状を肯定することへの恐怖なのかなぁ、と想像した。

彼女は、前に「結局、やりたいことは心の底から突き動かされるように、そして自然に始まっているもの」って書いていらして、心の底から湧いてくるような生産のエネルギーを生むには考え事をする時間が必要なのかなぁ、とか。

全然見当違いかもしれないし、そんなことはわかりきっている、なのかもしれないけれど。

 

 

 

今日こうして書きながら、もう一度山内マリコさんの「ここは退屈迎えに来て」を読もうかなぁという気分になりました。

ともこ、本返してなくてごめんね。

あととっちらかった文章になってしまったのに最後まで読んでくれた人、ありがとう。

おやすみなさい。